• ~旅と日々の出会い~

5.小さなお店

暖簾をくぐる前に「いらっしゃ」と元気な声が掛けられ、その言葉に誘われるように店に入った。「ありがとうございます」とカウンターに座る彼も立ち上がった。大きな尻ぺちで隣に座った。

「初めはおビールでいいかしら」

「夕ご飯はごっつおでしたでしょ。そげでも少しだけ刺身はきりますけん」

店のおじさんが言う。

「女将さんの煮物もだして」

話題になっていたようだ。誤解があるとしても、多少のことなら雰囲気を壊さないためには付き合うことにする。ただあまりにも現実と乖離した話なら、それなりの訂正をすればいい。初めから壁をつくることはないと生ビールを受け取った。

「乾杯」

刺身を口にした。

「美味しい」

おじさんと女将さんの視線がくすぐったい。

「そうだろう。オオちゃんのお知り合いだ、気張ったよ」

お酒がすすむお刺身だ。仲居さんの薦めた銘柄のお酒が棚に並んでいる。

「さあ、女将さんの煮しめも食べて。最高なんだよ」

竹の子やフキにぜんまい、わらび、焼き豆腐と里芋。

「美味しい」

懐かしい故郷の味で、母や祖母の味でもある。煮干し味の効いた、幾分醤油の味の濃さが家の味だ。これが料亭や飲み屋なら、ほかの料理の味を邪魔しないもっと薄味に仕上げられている。

「そうだろう。山の田舎料理と海の幸、島根の良さだよ」

旅館で頂いた島根の素材を最高の味に仕上げた料理も美味しかった。そこに島根ならではの「おもてなし」の心がある。温泉町の角に開いた小さな飲み屋さんの料理には、自然の恵みを大切に保存し、それを地元の味噌や醤油で「おもてなし」する古くからの文化がある。

「オオちゃんはいつもこうなんだよ。宴会もほどほどに、ここに来て飲んでくれるのだよ。松江の帰りにもわざわざ寄って食事もしてくれる」

女将さんの白い割烹着が眩しく見えた。

「そう。そしてね。あなたのように、初めて知り合った人も誘うのよ。オオちゃんだけでいいっていうのにね」

聞こえないふりをする彼を横目で見、女将さんに、どうしてですかと尋ねようとした。

テーブルが二つとカウンターだけで奥に小さな座敷がある、こじんまりした店。お客は二人だけで誰もいない。

「私、そこの松江のお酒、頂けますか。もちろん、会計は別にしてください」

誰かに気兼ねすることもなく、開放された気持で飲んでみようと思ったのだ。

「だめだよ」と止めた彼を睨み返した。「一杯、召し上がる。私のおごりで」。

テーブルに視線を落とす彼に、女将さんが含み笑いをしている。

「オオちゃんも、旅行の貴女も、お互いにご馳走になったら」

先輩たちといるときは全体を仕切っていた彼だが、ここでは雰囲気に委ね静かで、受け答えも抑揚のない淡々とした物言いだ。

「ありがとうございます。一杯だけ頂きます。その代わり料理はすべて誘った私の奢りですから」

女将さんにも「飲んで」とお酒を薦めた。「僕の請求で」

「はい、はい」と、お母さんのようにかわした女将さんが、彼に代わって店との出会いを話してくれた。

出会いは数年前に東京の会社の慰安旅行で玉造温泉を訪れ、二次会でこの店に来た。その後、島根の素晴らしさに魅かれてたびたび訪れ、Iターンで東京から移住した。現在は、中国山地で森林の伐採整備と小さな家具作りの会社に勤めている。休みの日は、畑仕事と近所の子供にパソコンと英語を教えている。

「晴耕雨読の生活です」

何か質問しなくてはと焦った結果、「これからどんなことがしたいのですか」と面接になった。

「犬を飼いたい」といった。意外なことだったのだろうか、女将さんもおじさんも笑った。「いつでも、飼えが」

子供の頃に仔犬にかまれたトラウマで、犬が好きだが触ることもできない。山の生活に憧れたのもトラウマを克服し、野原を一緒に走り回る自分を夢見たからだとお猪口を離さずに話した。

「貴女は何をされてるの」

東京のマーケテイング会社での市場分析や新商品販売のプロモーション企画の仕事を、大げさに面白おかしく話した。職場にも仕事にも多少の不満はあるにしても転職したいほどのことではない。ところが、何か満たされない。やりとげた充実感とか、評価された喜びとは違う、自分の存在意義のようなものが見えないのだ。それを既婚者は「結婚」「子供」というけど、そうではないと思う。

「キャリアウーマンなのね。しっかりされてるわ」

話題を替えるように新しい銘柄のお酒を頼んだ。彼も同じものを注文した。

「それ以外にやりたことはなんですか」

彼は正面の棚に並ぶ徳利を見ながらつぶやくように言った。

焼き窯を造り焼き物をしたいと。手製のピザ釜でピザを焼いているときに「火」に魅せられた。いつか炭も焼きたいという。

女将さんが「ログハウスは」と尋ねた。「あれは十年計画です。今、やっと山をならしたところです。これから木材集めです」。「田んぼは」。「はい、借りるめどがつきました。初めてですから、小さくはじめます」

十年の計画のある生活。小さなところから始めて大きくする。そこには形として変化・成長していく目標や成果がある。当然、身体もボロボロになる代償もあるだろう。けど、ながい時間との関係で生きていく。出来るかどうかを別にして、そこには具体的な手ごたえがあるような気がする。

「素晴らしいことですね。私にはできないな」

「僕も初めはそうでした。なにも知らない僕なんかに出来るわけがないと。でも、皆さんが協力し、応援してくれたのです。このお店にも凄くお世話になりました。一人では決してできなかったけど、みなさんのおかげです」

十時前になると彼は「おあいそしてください」と女将さんに告げた。女将さんはご主人と顔を見合わせ、「おひとり様、一千円」といった。そんな金額ではない。ひとり四銘柄のお酒を飲んだ。それに知らぬうちに料理が出、最後の仕上げにおにぎりまでいただいた。

五千円札を出す。それより早く彼が一万円札を女将さんに渡した。五千円札を彼に渡そうとしたが受取らない。無理やり胸に押し付けた。彼のごつごつした豆だらけの手が押し返す。「やはり、今日は僕が奢るべきです」。そして「素晴らしいひと時でした」と立ち上がり、自分だけさっさと店を出た。

「彼はね、うちのためにいろんな人を誘い、ご馳走するの。私たちも、何度も断ったのよ。でも、お世話になったかと、聞いてはくれないの」

封筒に五千円札を入れ、「今度、来られた時に、飲み代の足しにしてください」と渡した。女将さんは一瞬躊躇したが笑顔で受け取ると「明日はどこにお泊りですか」と尋ねた。

明日は足立美術館を見学してから松江市内の神社をお参りし宍道湖湖畔のホテルに宿泊する。夕ご飯はどこか飲み屋さんで食べるつもりだ。

「そのホテルも松江では最高よ。最上階の露天風呂も楽しんでね」

「女将さん、五人、大丈夫。それとカラオケ良いかな」

玉造温泉の川沿いの風が心地よかった。

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