• ~旅と日々の出会い~

二幕 松江しんじ湖温泉の巻

  1. 風土記の丘 (意宇郷)

神魂(かもす)神社の参道を左に折れ、丘を左に円を描くように緩やかな山道を進む。風土記の丘で、八重垣神社まではバスもレンタル自転車がありますよと教えてもらった。光と風を身体全体で感じ、足で踏みしめて歩くことにした。「意宇(オウ)」の郷のあぜ道を散策し、静寂な神魂神社の石段で目を閉じた影響だ。木々のざわめきも、草の息吹も穏やかな気分にしてくれる。

歴史をめくれば、ここに出雲国の政治や経済をまとめる町があり、そこに人が集まり商いも盛んだった。出雲大社や大和を繋ぐ街道沿いには大小様々な店や宿が軒を連ね、いろんな人たちが通り過ぎ、立ち止まり、情報や物を交換し合った。そんなざわめきが木漏れ日から伝わってくる。

カワセミの足取りは軽やかだった。どこからも人生の疲れも、また旅を謳歌しようとする焦りもない、おだやかな姿だ。それを称えるようにセミが鳴き、オニヤンマが飛翔した。部屋から解き放たれた仔犬のように進む姿は、無邪気で、幼げでもあった。

この丘の続きに昨夜泊った玉造温泉がある。もう会うことはないだろうオオの生き方を思い出した。東京でのひと付合いと休みのないシステム開発に、明日を見出せなくなったと漏らしていた。ここにあるかと言えば、もっと厳しい自然があり大変だが、十年後の自分が見えると誇らしげに呟いた。「不細工だけど美味しい野菜よ」と女将さんはオオの野菜作りを褒めた。

八重垣神社の鏡の池で和紙を浮かべる良縁占いをした。社務所で買った和紙に、十円玉か百円玉をのせ、池に浮かべる。早く沈んだら早期の良縁があり、池の奥まで進めば遠方の人との良縁。百円玉を奮発したのに和紙が沈む前に穴が開き、お金だけが池に落ちた。そんなものだと笑った。隣の女の子たちも忍び笑いをした。ただ中年の夫婦だけは神様でもないのに申しわけなさそうな顔をした。

本殿に戻る石段を上るとカップルの華やいだ笑い声がした。大木の中と小さな祠の横に木製の大きな男の人の一物が祀ってある。昔なら縁結びと子宝は一貫していたのだろう。祖母はお見合いで嫁ぎ、妊娠を知ってホッとしたと話してくれた。嫁入り婚の頃は、妊娠の使命と家業の繁栄が第一で、祖父と祖母が二人で旅行をしたのは子供が自立してからだ。

ちょっと恥ずかしい気持もあった。祠と巨木に手を合わせた。どんな人生が待っているのでしょうね、と心の中できいてみた。素戔嗚尊(スサノオノミコト)は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治すると助けたクシナダヒメを妻にし、大きなお宮を建てられた。その時に詠まれた和歌が日本最初の「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」。正義心があり、逞しく、そして教養があって愛妻家の神様だ。

  • 松江しんじ湖温泉の湯

今日の宿泊は宍道湖に面した松江しんじ湖温泉のホテル。ホテルの食事も魅力的だが、夜ご飯は松江の街で食べることにした。ちょっと勇気を出して二、三軒梯子して、島根の地酒を楽しむつもり。その予定で少し早めにチェックインした。

部屋からの景色は驚きと安らぎを運んでくれた。大きな窓いっぱいに広がった宍道湖が一望できる。ポツンと浮かぶ小島が嫁ヶ島だ。そこにも悲しい伝説がある。湖の対岸にかわった建物の県立美術館、その先には薄く青みがかった低い山々が連なっている。その裏側が先ほどまで散策した意宇の郷だ。

ひとりには広すぎる部屋、大きなベッドが二つもあり、掃除も奇麗に行き渡っていて、靴を脱ぎ素足なる。ベッドに仰向けになると、柔らかさと肌の心地よさにかすかな睡魔がおとずれた。このまま眠ってしまいそう。脹脛や腰、肩への包み込むような感触が一層、眠りへと誘った。でも、最上階の大浴場の魅力が勝る。それにロビーで見た団体客が気になった。最上階の大浴場を独り占めしようとは思はないけど、静かな雰囲気のなかで宍道湖を眺めたい。

松江しんじ湖温泉は温泉としては新しい。開湯は昭和46年(1971)、ボーリングの結果、地下1250メートルから湧き出した。温泉の効能は、婦人病、腰痛、神経痛など。そして肌にしっとり潤いを与える湯。

窓辺の縁に置いた腕に顎をのせ、宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島を眺めていた。天井までとどく大きな窓と肌に柔らかいお湯、そして穏やかな湖面の青さと山陰地方独特の蒼色の空が包み込む。開放感のある景色にはしゃぐ二人の若い女の子とは対照的に湯気にまどろんだ。

姑にいじめられた若妻が、凍った湖面を渡って実家に帰ろうとした。ところが氷が割れ、落ちて亡くなった。それを哀れんだ湖の神様が、一夜にして島を浮かび上がらせた。その島の名前が嫁ヶ島。

悲しい話を作るものだ。宍道湖のどこからどこへ帰ろうとしたのか。そんなことはどうでもいいのかもしれない。いじめられた若嫁がいて、近道の凍結した湖があり、そして亡くなった。明日、小泉八雲の『知られぬ日本の面影』を小泉八雲記念館で買う予定だ。怪談話とは別に島根には悲しい話が多い。

「どこからおいでました」

銀歯が可愛らしいお婆さんに声を掛けられた。もし橋の上だったら身投げでもすると思われたのだろう。

「東京ですかね。孫も東京におぉますが。なにしちょうやら、帰ってきませんが。ナカメに住んじょうらしいですが、どげなとこですかね。同棲しちょうが、騙されんとええですが」

「お婆さんに似ておられるのでしょう。きっとしっかりしていますよ。大丈夫です。今夜でもお電話をしたらどうですか」

似ているという言葉に心配事の弧線が安堵したのだろう。「だんだん」と呟き、一緒に来た嫁らしき婦人に手を支えられて洗い場に向かった。

宍道湖の右端の方の湖面が、幾分赤味がかってきた。空は青く澄み渡っている。肩までつかり、肩を揉み解した。そしてもう一度、嫁ヶ島を眺めた。大きなカメが夜な夜な歩いた松江の町。神話とは別に不思議な昔話も沢山あるところだ。

つい長湯した。部屋に戻るとベッドに仰向けになる。身体の端から心地好いだるさがまとわりついてくる。このまま眠っても後悔しない温もりと安らぎだ。クーラーのスイッチを入れようと枕元に手を伸ばしたはずみに、宍道湖の湖面が視界に広がった。もったいないと思うほどの澄み渡った青だった。その青に赤味がかかろうとしている。淡く儚いグラテーションだ。

窓から身を乗り出して見る宍道湖にも、そして空にも朱色の色が網のように広がりつつあった。部屋からも十分堪能できるが、ジョギングや散歩する湖畔の道がもっと魅惑的に映った。夜の食事に出かける支度を済ますと小さめの鞄を手に部屋を飛び出した。この夕陽を眺めてから、食事に行こう。

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