• ~旅と日々の出会い~

3 水郷の町、松江の夜

ルームキーを預けにフロントに向かうと、オオの澄んだ声が飛び込んだ。フロントの人に頼みごとをしているが受け入れてくれないようだ。

「どうしたのですか」

「この方です」とオオは指さした。

「お知り合いの方ですか」

フロントの男の人が守るように寄り添った。

ホテルにカワセミが泊まっているので電話を繋いでほしいと伝えた。ところが個人情報の管理とお客様の安全のため、宿泊していることも、また宿泊していないことも話せないと拒否された。途方に暮れているところにカワセミが現れたのだ。

県立美術館へと運転するオオは何度も詫びた。迷惑をかけたことと、要らない疑惑をかけてしまったと。昼に女将さんから電話を貰い五千円のことを知った。そのお金を返しに来たのだ。ロビーで受け取れない、受け取ってのやり取りがあり、妥協としてこのお金で食事をすることになり、食事の前に県立美術館から宍道湖の夕陽を見ることになった。

島根半島の山影へと落ちる夕陽は、宍道湖の湖面を一条の紅の帯となって渡ってきた。それはさざ波によってあたかも神が水面を渡るがごとく揺れ、厳粛で、神聖なる輝きを放った。赤く染まる空に薄っすらと輪郭をなす山々、やがてその山並みに夕陽が落ちる。白波をのぞいて湖面も薄暗くなり、周りは夜の帳を待つかのように静寂となった。

「そろそろ行きましょうか」

オオの堀の深い横顔に夕陽のなごりが貼りついていた。

「はじめは、おでんでしたね」

大川沿いの夜景に自然と二人の歩みは緩やかになる。

ノンアルコールで乾杯したオオだった。ところがカワセミが島根のお酒を飲み比べたいと女将さんに頼むと、オオも車を代行に託し飲むことになった。奥出雲の酒から出雲の酒へ。美味しい料理と女将さんのお酒の解説に話も弾んだ。

カワセミは仕事の話をし、目標の見えない生活の物足りなさを口にした。オオもシステム開発時代の寂しさを面白おかしく話題にした。女将さんも随分明るくなったとオオを褒めた。35歳で島根に来て今年で8年目のオオ。35歳だと告げたカワセミに、35はひとつの人生の境目ねと、女将さんも関西から戻ったのが35歳のときだったと話した。

飲み屋を開くことには抵抗があった。その背中を押したのが料理を担当するご主人だ。「お前の明るい性格と人の心を引き出す会話術は女将に向いている」と。決め手は「二人で、みんなの止まり木になる店をやろう」と告白にもとれる励ましだった。

女将の言葉につられ、オオが島根の良さを饒舌に語り、それに負けずに自分の夢を追うと話した。そして十年も二十年もかけて夢を実現したいと決意を顔でも示した。

「そうよ。決して一人ではないのよ」

女将の言葉が日本酒と一緒に喉をすぎていく。

「お母さん」

ホテルのベッドに仰向けになって新潟に暮らす母に電話をした。「ずいぶん、ご機嫌ね」といつもと同じ機嫌のいい母の声だった。父に代わり、久しぶりにぷっきらぼうな声を聞き、弟に松江での経緯を話した。驚いた弟は母に電話を替わった。「どんな時でも、私はあんたの味方だからね」。島根の酒のように胃袋に染み入るような言葉だった。

朝一番の展望風呂から見る宍道湖の湖面は銀色に光り輝いていた。シジミ採りの小舟が左右に揺れている。青味がかった山々の向こうに中国山地が連なり、そのどこかの山の中でオオは今日も朝から杉の木の枝打ちをしている。社会のためのシステム開発、でも自分はそこにはいない。何か形にしたかつったと説明した。貯金とわずかな退職金を奥さんに渡し、離婚した。あの時は夢などではなく東京の仕事から逃げたかっただけでしたと言う。でも島根に来て夢を思い出した。その夢が山々の中でひとつひとつ夢を作り上げることだった。

両腕に顎を置き昨夜の会話をひとつずつ思い出す。よく笑った。初対面の人になんのわだかまりなく話し、抵抗もなく話しを聞くことができた。出雲大社では嫌悪したオオの仲間のオジサンたちも、アイフォンでみる写真では人間味に満ちた慈悲深い顔をしている。

酔った勢いで正直に言った、「お尻が見られている感じでした」と。オオは笑い、そこではありませんねと否定し、みんな「別嬪さんだと言ってました」と真顔で言った。

「お奇麗ね。私の若いころそっくり」と女将さんが言った。「鼻べちゃが」とオヤジさんが笑う。

昨夜、両親や弟に話したことを反芻する。本当にいいのと自問する。それでも決心は揺るぎのないものだった。東京に戻ったら上司に報告しよう。そして、それはなぜ好きになったのかの訳でもあるような気がする。

(本当にいいのね、かわせ みなみ)。「はい」。

「どげしたかな。ぼーとしちょうと思ったら、大きな返事をして」

昨日のお婆さんが、タオルで隠すこともなく立っていた。

「美しい宍道湖を、きもちのいいお風呂から眺めていると勇気が湧きました。ありがとうございます」

「そげですかね。そりゃよございましたね。まるでいい男さんに出会ったようだわ。もっともっと別嬪さんにならっしゃった。ほんに、出雲には沢山の縁結びの神様がおらっしゃるけん」

→「自然と観光 自然の恵み 温泉」に戻る


PR

生霊
雪女
雉子のはなし

AD